2012年4月6日金曜日

AKI@とある獣医の豪州生活のプロフィール


とある青年の自己伝記(バイオグラフィー)

ベルリンの壁が完全に崩壊した1991年夏、東京は練馬区に生まれる。生物学が大好きな母曰く、「子供の生態に興味を持ったから産んだ」らしい。その後、母乳を媒体にしたアレルギーの遺伝等、まだ証明すらされてないような変態な事に気を配られつつ順調に育つ。

5歳、物心がつき始めた頃に保育園の裏庭で大量のダンゴムシを捕まえ、空き瓶に入れて家に持ち帰る。枯葉等を餌として与えていたところ、ビン内でダンゴムシが爆植する。手に負えなくなったので自分の家の庭に放流したところ、庭のパンジーの花が一夜にして全て食い尽くされるという事件を引き起こす。

6歳、保育園の行事で田植えに行ったところ、田んぼで雌のザリガニを� ��まえる。サリーと名づけ、初めて本格的に「生物」を飼育することになる。抱卵していたサリーが大量の稚ザリを産むが、水質汚染や共食いで大半が死んでしまい、サリー自身も夏場の暑さで飼育水が腐り星になる。大事な友の死に涙しつつも、命の尊さと飼育者の責任感を学ぶ。

小学校に入るとすぐに昆虫博士の座を射止める。調子に乗って図鑑ばかりを眺める、典型的な「虫捕り少年」の道を歩み始める。昆虫同等全ての生物が好きで、将来の夢は「動物園の飼育係」だった。
春休み、母に連れられてタイへと旅に出る。ボロボロのバンガロー、水しか出ないシャワーなどにショックを受けつつも、豊かな自然に7歳のチビは心を打たれる。野良猫が楽しそうに蜘蛛と戦っているのを見て、苦手だった蜘蛛が好きになる。

小学二年生になり道徳の一環として学校でザリガニを飼うことになる。無知な先生が「命の大切さを知ろう」などとぬかしながら給食の残りのパンを餌として与え、水換えと称して水道水を注ぎ込むので、飼育開始から一週間でザリガニが全滅する。すでに周りにある動物図鑑を読破し、ザリガニの飼育知識が豊富だった8歳の自分は激怒し、母に相談。翌日には母が学校に殴りこみ、しっかりとした飼育環境を整えさせることに成功する。いわゆるモンスターペアレントの誕生 である。また、この頃の将来の夢は「昆虫学者」と、8歳にしてすでにマニアックなことを言い始める。
春休み、タイで心を動かされたことに味をしめた母が今度は自分を連れてフィリピンのとある孤島に旅に出る。住まいはまたしてもバンガローで、今回は島だったので真水は船で輸入、シャワーは海水へと退化した。どこまでも続く遠浅の海は水上から底の砂粒が見て取れるほど透き通っていて、2週間の毎日を海でシュノーケルをしたり魚釣りをして過ごす。魚釣りは現地の子供と仲良くなり、餌としてオカヤドカリを割って針につけていることを学び、200匹近いオカヤドカリを捕まえてくる。後に日本ではオカヤドカリは天然記念物に指定されていることを母から聞き、日本の自然の危機に幻滅する。また、保育園時代から英会話を習っていたにも関わらず現地の同年齢の子供達のほうが英語力が上だったことにショック� �うける。日焼けをしすぎて現地人と間違われるようになり、溶岩石の上を裸足で走れるほどに足の裏が強くなる。


時夏時間終了オーストラリアはない

3年生、クラス替えで保育園からすごく仲の良かった親友と同じクラスになる。この親友も大の生物好きであったため、放課後は毎日のように二人で虫や魚を取りに行き始める。家のプラケースの数が一気に増え、虫捕りは5分間に13匹のセミを捕らえられるほどの腕になる。住んでいたのは東京なので、魚を捕りには網を片手に持ち自転車で片道30分の道のりを毎日のように爆走する必要があった。それが影響したか後にこの親友はチャリのインターハイでトップ3になり、スポ選で日本の某有名大学に入る。
春休み、恒例のように何処かに行くかと思っていたら、母から出てきた言葉は「アフリカ縦断するぞ」の言葉だった。8人編成のツアーでキャンプを張りながら、ザンビアから南アフリカに向けて6400kmを車で縦断するツアーに参加する。ツアーとは名ばかりで、実際は「ライオンに襲われない程度の場所でキャンプを張り、食料を調達し、水を浄化し、車が壊れたら一人20kgの荷物を持って200km先の町まで歩く」ことを前提にしたサバイバルな旅。果たして9歳のガキがメンバーに入れてもらえるのか不安だったが、リーダー兼ツアーガイドの兄ちゃんの「子供は適応力高いの知ってますから」の一言であっけなく承諾される。この頃にはバンガローに冷水の出るシャワーがついていたら文明だと絶賛する価値観を手に入れる。ア� ��リカという動物王国でたくさんの生物を見て感動し、人々の生活の差に驚愕し、店で出された牛乳が腐っていて悶絶し、その他文章にまとめると世界中の木を切っても原稿用紙が足りなくなるような経験をする。ちなみに春休みだけでは日数が足りなかったので、4年生の最初の2週間は堂々とサボる。

4年生になり、伸ばしていた髪をヘアバンドでくくるようになる。理科の観察としてモンシロチョウの幼虫の観察をすることになったので、翌日には自分が捕まえてきたモンシロチョウの幼虫40匹をクラスに寄付する。この年、いつものように友人達と自転車で爆走していたところ、誤って前輪のブレーキを先にかけてしまい宙を舞い、5m先まで飛んだ後コンクリートの道に着地、前歯を2本脱臼する。手のひら一杯の出血をしつつも何� �か涙すら見せず冷静に、そこから一番近かった保育園に駆け込み母に連絡を取ってもらう。30分後に駆けつけた母に連れられて掛かり付けの歯医者を尋ねる。4時間以上に及ぶ集中治療を経て、神経を殺すこともなく前歯の固定に成功するも、その後しばらくは離乳食同然の食生活になり不憫な少年生活を送る。また、夏休みにハワイでウミガメの産卵を目撃した影響か、この年に作文で書いた将来の夢は他のクラスメイトが野球選手だのお花屋さんだと言っている横で「アオウミガメの研究者」。
春休み、動物王国アフリカを隅々まで堪能した生物好きの二人が次に目指したのは「西オーストラリア縦断」であった。夜になるとヘッドライトに向けて飛び込んでくるカンガルーに怯えつつも時速120kmでパースからエクスマウスまで、北に向けて車を走らせる。アフリカのサバンナとは一風変わった地平線に心を打たれつつ、動物の宝庫と歌われる豪州の自然を堪能する。エクスマウスでは海で世界最大の魚類であるジンベイザメと泳ぐ。3m隣りを平行に泳いでいると尾の一振りが作り出す水流に煽られて吹っ飛ばされ、自然の大きさと人間様の小ささを身に持って知る。


音声の生理学の部分は何ですか

5年生、クラス替えで親友とクラスが離れてしまい、さらには前の学校で不祥事を起こしたとか噂される新しい先生が担任になる。担任のウザさに涙するが、日本の教師にはこういった奴が多いと知り、一つの人生経験と割り切る。男子の中では昼休み中に「ケイドロ」なる鬼ごっこに似た遊びが流行る。この世で一番強い戦略は奇襲であるということに11歳ながらにして気づき、道の角で張り込んだり、物陰に伏せて待ち伏せしたり、さらには昼休みの途中でジャケットを脱ぎ服の色を変えて人ごみに溶け込むなど、論理的な思考を元に高度なテクニックを使うようになる。
恒例の春休み、今度はどんな国に飛ばされるのかと思っていると、何故かまたしても豪州に飛ぶ。今回は東豪州でこれまでの旅のような「自然」の中ではなく、どちらかというと都会を周る。もちろん自然公園や海、魚釣りなどもしたが、これまでとは目的のベクトルが違う気がしていたところ、どうやらこの旅は母の「オーストラリア移住計画」の下見が主な目的だったようだ。QLD州はゴールドコーストに滞在した二人は、治安と環境が良く、自然に囲まれつつ、日本人も多いこの街を大いに気に入る。

6年生になると、いよいよ自分の立場が他のクラスメイトと違ってくる。それまで一緒に遊んでいた友人達も皆が塾に通う毎日になり、自分は3年生の時に一緒だった例の友人と能天気に魚釣りをして夏を楽しむ。コイ を3匹釣り大きなプラケースで飼っていたのだが、ある冬の日に水換えをしたところ急激に冷水を注いだせいで一匹のコイが痙攣を始めてしまい、必死で酸素量を増やしお湯につけて2時間の看病をして無事に治すという荒治療に成功する。涙目になりながらコイの治療をしつつ、自分の飼育者としての無知に憤慨する。ちなみにこの年最後の作文でも将来の夢として「動物学者」を挙げている。
卒業式の日、あいかわらず馬鹿な担任がバラすなと釘を刺しておいた豪州移住の話を自分が病欠で学校を休んでいた際にクラスに話してやがって、なんかみんなから寄せ書きを貰った気がする。担任としてはドラマのようなお涙頂戴な展開を望んでいたのだろうけど、全く余計なお世話である。この担任はクラス全員から嫌われているのを知っていたので、卒業の日には事前にクラス全員から集めておいた署名と担任に対する意見をまとめた書類を校長に渡した後、置き土産に満足した12歳は学び舎を後にする。この署名が効果を発揮し、担任は次の年から1年生担当になったと聞く。ざまぁみろ。バリ封しなかっただけ感謝してほしい。

こうして完膚無きまでに日本を蹴り飛ばした母子は2004年4月、共にオーストラリアはゴール ドコーストへと移住する。新しい家族として、生後3ヶ月のゴールデンレトリバーの子犬を貰い、チャンスと名づける。日本からの船便が着くまで空っぽの家でやることがなかったので、母に頼んで麻雀を習う。

学校は現地私立校の7年生のクラスに入る。6歳から英会話を習っていて海外にもよく行っていた自分は最初は自分の英語力に自信があったが、その自信は学校が始まって最初の3分でことごとく砕かれた。とにかく周りの人間が何を言っているのかが分からなかった。聞き取れないし、自分の言うことも通じない。「Yes」と「No」と「I don't know」の3つしか言えない生活が続く。コミュニケーションの取れない学校は一日が信じられないほど長く、下校時には毎日涙目になりながら帰路に着いた。あまりにショックだったのか、この年の記憶はほとんどない。が、イジメもない世界で、いつもポジティブなオージーに囲まれていたので持ちこたえることができた。
同時期、家の本棚にあった「チェス入門」という本をめくっていたところを母に進められて、チェスの教室に参加する。言葉を必要としない盤上の世界で、論理的に相手と戦うこのゲームに才能を発揮する。もともと計算、先読み、論理的思考や戦術思案といった分野が強かったのであっという間に力をつける。


何年間は、キーを発明したのか?

2005年、自分でも気づかないうちに進級して8年生になる。しかし8年生になっても英語力は伸び悩み、あまり授業内容を理解できない日々が続く。一方、チェスでは学校代表として大会に出て、個人戦では1位、団体戦を3位に導くといった大きな成果を出して校内新聞の一面を飾る。今までロクに話せもしなかった自分に注目が集まり、挫けかけていた心を持ち直す。8年生の2学期、移住から1年と2ヶ月ほどが経った頃から急激に英語力が伸び始め、昨日まで雑音に聞こえていた英語が一瞬にして聞き取れるようになるという不思議な体験をする。いわゆる英語脳が発達し、英語の吸収率が急加速する。それまでは文章の意味が分からなかった数学の� ��ストで満点を取ったほか、得意科目である数学と理科を中心にグングンとそれまでの遅れを取り戻すかのように成績を上げていく。8年生の二学期が終わる頃には英語こそはまだつたないものの、学校の成績では上の下辺りまで登り詰め、一番成績が伸びた生徒として表彰される。
同時期、今までは金がかかるものとして避けていた熱帯魚に手を出す。入門魚だとしてグッピーとプラティを飼い始め、これにはまる。しかし熱帯魚の知識はまだ浅く、病気や水質汚染に苦しめられる。日本にいた頃の経験や、新たに始めた熱帯魚の死を目の当たりにしながら、14歳の少年は将来の夢として「獣医」という考えを持つ。が、豪州における獣医学部のハードルの高さは英語のハンディを抱える自分ではとても到達できるものではなかった。魚類が好きだったので、獣医よりもハードルが低い「海洋生物学」をゴールに定める決意をする。

2006年、いくらかハードルが低いとはいえどやはり難しい「海洋生物学者」を目指すことに決めた自分を見て、母が自分を私立進学校に売り込む。同時に、息子がこの進学校の卒業生� ��あるチェス教室の先生が自分を推薦してくれ、チェスの成績を見込まれた自分は異例の待遇で進学校に転校する。この進学校は順番待ち名簿にたくさん名前が並んでいるような学校なのでコロッと転入することは難しいはずだった。またしても人生の大きな分岐点をチェスによって導かれる。前の学校で結構上位の成績を収めることができていた自分は新しい環境での下剋上に胸を躍らせていたが、結果は悲惨なものとなる。進学校なので生徒の平均レベルは圧倒的に高く、授業内容も難しく、授業のスピードも明らかに早く、さらには学年で英語が苦手な生徒は自分以外にいないという環境だった。歴史のテストでは人生至上後にも先にもない落第点(D+)を取ってしまい、持ち直した心が再度折れそうになる。しかし譲れな い夢があったので、母に励ましてもらいながら勉強を続ける。自分にとって一番の弱点は英語力であり、英語力のせいで全ての科目での成績が伸び悩んでいると考え、夏休みの2ヶ月は毎日のように英語の勉強を続ける。また、この頃になると英語を喋ることは大分楽になり、この辺りから自分の人格が急激にオージーに近づき始める。それまでネガティブ思考だったのがポジティブ思考に移行し、オージーに混ざって小学生のようなくだらない遊びをして伸び伸びと過ごす。
同時期、自分が本格的にグッピーにはまりだす。それまで1本だった水槽はやがて2本になり、3本になり、4本になる頃には水槽ラックを組んで自分の部屋に置く。遺伝子交配に興味を持ち、独学で遺伝学を大学レベルまで勉強してしまう。メンデルの法則通りの比率で劣性表現の稚魚が現れ、自然の数学的美しさに魅了される。グッピー仲間の集まる掲示板を覗くようになり、やがては常連となって「海外に住むグッピーオタク」としてネットの世界に潜り始める。


2007年、10年生になるとまたしても自分の成績が少しずつ上がり始める。この頃はまだ選択科目制ではなかったので、英語力や単語力がモロに成績に反映する歴史や英語といった科目の成績は低空飛行を続けていたが、数学や科学といった分野では成績が伸び、数学は特進クラスに入ることに成功する。しかし10年生の最後の時期でも自分の成績は校内70位辺りで、真ん中よりも下に位置する場所。この成績のままでは海洋生物学部に入ることも難しいので、さらなる努力を決意する。それまで続けていたチェスも勉学に集中するという名目で辞め、学力を伸ばすために気合を入れなおす。また、10年生のキャンプは「サバイバルキャンプ」と呼ばれ、4泊5日間を山の中でテントを張って暮らすと� �う内容のものだった。水は川から汲んできて煮沸殺菌して飲み、16歳の少年少女は水、食料、設営器具の入った15kgものバックパックを背負って山道を登るという軍隊のような過酷なキャンプだったが、ヒヨってる日本では考えられないような豪州の教育方針に感動を覚える。また、16歳で仮免を取得し、車に乗り始める。
同時期、飼っていたラットが逝く。初めての哺乳類の死はとても辛く、丸1日飯が食べられないまま泣き崩れた。結構長いこと一緒に暮らしていたことや、ペットショップで購入した時点ですでに成長しきっていたので寿命で逝ってしまったのだと思うが、確信が持てない自分の無力さを悔やむ。また、グッピーの交配は更にマニア度を増し、戻し交配からの選別によって自分のオリジナルのダブルソードテールの固定に成功する。が、勉学に集中するためにグッピーの世話も断念し、この固定した系統はすぐに失われる。

2008年、11年生になり高校の授業が選択科目になる。自分は完全な理数系だったので必須科目の英語と数2Bの他、数3C、化学、物理、日本語の授業を選択。日本語の授業では勿論100%が取れ、更に得意な数学と科学� �着実に成績を伸ばす。大学の学部は12年生の成績で入れるかどうかが決まるので、選択科目になった11年生の成績でどこまで到達できるのかを確かめる。1学期が終わり、校内新聞を見た自分は自分の名前が成績上位15位のリストに載っていたことに驚愕する。去年までは苦手科目を含んだ総合成績で校内70位辺りをうろついていた自分が、半年で校内12位まで上がることに成功した。それまでは海洋生物学部すら夢のまた夢であったのに、これによって一気に「獣医学部」への道が開けることになる。移住5年目にて、それまで闇の中を必死でもがいていた自分にようやく現実的な光が差す。1学期の成績で光を見定めた自分は2学期にはさらに成績を伸ばし、12位から8位にまで上り詰める。
と、受験生の身であるにも関わらず人生の大切な経験の一つだとして寿司屋でバイトも始める。勉学に追われつつ週末をバイトに費やすのは忙しく、だからこその達成感があった。母や学校の人間以外の大人からビシバシとしごかれるのも良い刺激となる。

2009年、12年生。高校最後の年であり、決戦の年。本当にゼロから始まった豪州での学校生活の成果をぶつける年。この年は物心がついたときからの夢である「動物とのお仕事」の中でも最高峰に位置する「獣医」を目指すために、ひたすら勉強する。校内順位は7位にあがったものの、上位の攻防戦は激しくそれ以上の順位変動は無く、自分も防戦一方になる。が、同時に学校で面白い話題を作ってやろうと、この人生がかかってる時期にバイトも続けていたりした。その理由は 「成績上位者で勉強をしつつバイトをしている奴はいない。だったら俺がその常識をやぶってやろう」という訳の分からないものだった。結果的に学校が終わるまで7位の順位は守りきり、「バイトをしながらトップ10を維持した12年生」としてちょっとした伝説になる。後は年明けに大学が決まるまで思いっきり遊んでやろうと、10月からはそれまで勉強に明け暮れてきた仲間達と青春を取り戻さんとばかりに遊び呆ける。もちろんもう勉強がない学校なんぞはサボる。


年が明けて2010年、成績がやや足りず第一志望のシドニー大学の獣医学部、第二志望のクイーンズランド大学の獣医学部には入れなかったものの、第三志望のアデレード大学と第五志望のメルボルン大学からオファーがくる。夢にまで見た、小さい頃から夢だった獣医学部に本当に入ることができた。移住した当初はあり得ないくらいに高く見えたハードルの上に自分が立っていることに今更ながら驚く。第三志望のアデレード大学の獣医学部に入ることを決め、ゴールドコーストから2000km離れたアデレードに引っ越す。獣医学部に入り、たくさんの動物好きの仲間達に出会う。中には動物を飼ったことすらないとかいう奴もいて最初はショックだったが、予想はしていたので軽く� ��け流す。それまでは「毎日20本の水槽ばかり見ている変な子」というような肩書きだった自分も「毎日動物の世話を欠かさない魚好きな獣医学生」という、社会に認められそうな肩書きを手に入れる。
また、受験時代に止めていたグッピーの飼育繁殖を再開する。エンドラーズや各種ソード系など、原種系グッピーを大量に飼い始める。さらに動物に関する学業につけたため吹っ切れたのか、夢だった蛇の飼育まで始めやがる。

2011年、念願叶って蛇の飼育を始めた勢いに乗り、これまた飼いたかった猫までを一員に迎え入れる。すでに家は動物達で溢れかえっているにも関わらず、春先には道端で瀕死のアオジタトカゲを発見し、これを保護する。極度の脱水症状と他の動物に咬まれた傷から生じた下半身麻痺で排泄もままならないトカゲの看病にあたり、これを救うも後足が麻痺してしまっていたため長期間匿うことになる。また、大学では本格的な解剖学の授業が始まり動物の検体を扱うようになり、動物の死体を扱い続ける日 々に悶々とする。研修先では病気のヒヨコに対し自分の手で初めての安楽死も実行し、頚椎を脱臼させた自分の親指が数日間震え続けた。

↑今ココ(´・ω・`)



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